廬 山 寺

御所東側の廬山寺へと行く。当寺の正式名称は廬山天台講寺であり準門跡寺院であるが、九三八年に慈恵大師が船岡山に創建したものである。その後紫野などを経て、桃山時代に正親町天皇(おおぎまちてんのう)の領地を下賜されて当地に移っている。昭和四〇年に考古学者・角田文衛博士により、当寺の境内が紫式部邸趾であったことが判明、爾来紫式部のお寺として有名になった。皇室直属の御黒戸(尊碑殿)四ヶ院の中で唯一残存する摂家門跡であるという。現在の仏殿、御黒戸は徳川家斉の時代に光格天皇が勅命で再建されたものである。光格天皇は当寺で度々月見の宴を催されたという。

 角田博士によれば、紫式部は曾祖父・権中納言藤原兼輔(堤中納言)の建てた邸内で育ち、名を藤原香子と言った。この邸宅で結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み育てて、五十九歳ぐらいで没したとされている。はじめは藤式部と呼ばれたが、紫野で生まれたことや、紫の上の名より紫式部と呼ばれるようになったとの説もある。藤原冬嗣より数えて紫式部も藤原道長も共に六代目であり、主流と傍系との違いはあるが、まさに同時代に生きており、当然交流もあったと言われる。また光源氏には様々なモデルがいるが、藤原道長もモデルの一人と言われている。当寺に掲示されていた系図によれば、兼輔の娘(紫式部の伯母)は醍醐天皇に入内しており、土御門天皇を産んでいる。また賢子の子孫の一人も、天皇と結ばれており天皇家との関わりが深い。天皇家との関わりが深く、また傍系ではあるが藤原一族であったことより、紫式部の作品「源氏物語」が特別扱いされた面もあったのかもしれないと感じる。紫式部はユネスコにより世界の五大偉人の一人に選ばれており、世界最古の文豪とされている。

 庭園は平安朝の感じを表現したもので、新しく造園されたものらしいが、白沙と苔の島、苔の陸地に松を配しており、独特の風情あり。 

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