西 本 願 寺

 今日は西本願寺の飛雲閣公開の最後の日と言うことで、午前中の新幹線に乗り一時過ぎに京都に着く。京都駅よりすぐにタクシーに乗り継いで西本願寺までやってきたが、最終日と言うこともあり入園を待つ人の行列が延々と連なっており、三時間待ちと言うことなので入園はあきらめて阿弥陀堂と御影堂を拝観する。

「本願寺グラフ」と言うパンフレットによると、当寺の大まかな歴史は次の通りである。本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、その位置より西本願寺とも言われている。浄土真宗は鎌倉時代の中頃に親鸞上人によって開創された。もともと本願寺は親鸞上人の廟堂から発展したもので、上人が九十歳で往生すると(一二六二年)東山鳥辺野の北、大谷に石塔を建て遺骨を納めた。その後一二七二年に現在の大谷廟堂の地に移されている。三代覚如上人はこの廟堂を本願寺と称して、真宗教団の中心地とした。その後室町時代中葉に八代蓮如上人が出るに及んで、本願寺は著しく興隆し比叡山の勢力圏である近江にも広く及んだ為、叡山僧徒の反目を買いついに一四六五年に本願寺は襲撃を受け破壊された。こうして大谷の地を退出した蓮如上人は近畿各地を転々とし、やがて越前の吉崎を根拠地として北陸の諸地を布教された。その後上人は再び近畿の地に戻り摂津・河内その他の地域の教化に努め、一四七八年には山科で本願寺を再建して、八十五歳で大往生を遂げている。蓮如上人は大坂・石山にも坊舎を建てたが、戦国の戦火の時代にあった証如上人の折に(一五三二年)山科本願寺は日蓮宗徒や細川氏らの攻撃を得て炎上した。為に本願寺は大坂・石山の坊舎に移り、ここを本山とした。このころ本願寺は加賀を勢力下に治め、一五五九年には十一代顕如上人に門跡が勅許されている。しかし一五七〇年に至り織田信長が西国への要路である大坂の地に目を留め、石山本願寺にその地の譲渡を求めてきた。その後十一年にわたる石山合戦の後、一五八〇年に正親町天皇の勅によって和議し、本願寺は紀伊・鷺森に移った。その後更に和泉・貝塚、大坂・天満へ転じたが、一五九一年に豊臣秀吉が京都・六条の現在の寺地を寄進したので、本願寺は旧縁の地へと戻ってきたのである。一五九二年に顕如上人が急逝、その後を長男の教如上人が嗣いだが、顕如上人の譲り状が三男准如上人宛となっていたため、教如上人は引退して北殿に住し裏方と呼ばれていた。徳川家康が政権を握ると(一六〇二年)、教如上人は家康から烏丸七条に寺地を得て、ここに東本願寺を別立、これが大谷派本願寺である。西本願寺の前門主は二十三代勝如上人であり、現門主は即如上人である。現在の御影堂は一六三六年に、また阿弥陀堂は一七六〇年に再建されたものである。山内には書院とその前庭の虎渓の庭、黒書院、能舞台、百華池それに飛雲閣等がある。この飛雲閣は秀吉が建てた聚楽第の一部で、三層からなる楼閣である。これは金閣、銀閣と並んで京の三閣と呼ばれている国宝である。又北小路通りにある国宝唐門は、檜皮葺・唐破風の四脚門で伏見城の遺構である。こうしてみると西本願寺には、秀吉の遺構が残されていることがよく判る。阿弥陀堂と御影堂の中を参拝するが、特筆すべきことはなかった。

西本願寺から、平安神宮へと行く。ここは先日の四月九日に来たときは、まだ枝垂れ桜が満開でなかったが、今回巡ってみるとその紅枝垂れが満開であった。特に西神苑の咲き乱れる紅枝垂れと、栖鳳池に架かる橋殿を背景に見た枝垂れ桜が見事であった。

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